入学者の学力低下に対応しょうとする動きである。
この問題も、18歳人口の急減という背景の前で考えるべきである。 その一方で、国家財政悪化のもとで独法化が行われれば、国立大学の入学金や授業料の値上げも十分予想される。
その結果、教育費負担の国私間の差が縮小すれば、入学者獲得のためにAO入学(多様な方法での選抜)や推薦入学の拡大など、受験生の負担軽減を図る大学も増えるだろう。 定員割れを避けようとすれば、むやみに入試科目を増やすことはためらわれる。
こうして国立大学の場合もまた、大学が生き残りを図ろうとすればするほど、高校までの教育改革の影響をまともに受けることになるのである。 小学校や中学校で、授業がわからない子どもを減らそうとすることは、重要な課題である。
だが、そのための解決策が、全体の教育水準をどのように変えてしまうのか。 この問題の重大さを、18歳人口の急減という動かしがたい趨勢と絡めて考える必要がある。
高校までの教育改革によって、これまで以上に「狭く、浅く」しか学ばない学生が大学に殺到する。 それでも学生を受け入れざるを得ない立場に大学は置かれる。

こうした事態が日本にとって深刻なのは、大学の教育力が他の国々に比べて見劣りするからである。 しかも教育力を早急に改善できるほど、日本の大学には十分な感応性も機動力も備わっているようには見えない。
改善のためのインセンティブも不在である。 その責任は大学だけに求めるべきではない。
これまでの日本社会全体が、大学に入るまでの教育に比べ、入学後の教育を軽視してきたからである。 大卒者を採用してきた企業も、理系を除き、大学教育にほとんど期待をかけてこなかった。
アメリカのように就職の際に大学での成績が重視されることもない。 大学教育が就職活動によって実質3年間になることに、企業も大学も目をつぶっているほどである。
企業をはじめ社会全体が、大学での教育の成果を問わないのであれば、学生か勉強せず、教師が教育の改善をめざそうとしないのも当然である。 受験生とて、教育の質で大学を選ぶようにはならない。
それなら市場原理の導入によって大学に競争させても、教育の改善には結びつかず、むしろ受験生に迎合した入学者獲得競争に拍車をかけるだけである。 それでもこれまでやってこられたのは、この間までは高校までの教育がしっかりしていたこと、大学が学力によって入学者を選抜できたこと、実質的な職業訓練は長期雇用を前提に企業内で行えたことなどによる。

低価格を求めて海外のゲストハウス 東京をさらに進めれば、国内のゲストハウス 東京が空洞化する。